所長ご挨拶

福岡行動医学研究所は、医療法人うら梅の郷会(林道彦理事長)を母体とし、九州大学精神科第5代教授を務められた中尾弘之先生を初代所長に迎えて1998年4月に開設され、若い精神科医の支援を目的として、平成元年から約15年間にわたり雑誌「福岡行動医学雑誌」を出版してきました。

中尾先生の後を引き継いだのが九州大学精神科講師を務めた松尾正先生で、2019年3月まで所長として活躍されました。松尾正先生は、「沈黙と自閉」「存在と他者」などの著書を書かれ、“分裂病”を現象学的に深く考察された精神病理学者です。関連する領域の知己も多く、雑誌は精神病理や精神療法の深い考察で満ちていました。そのあとを受けて、僕がその任を引き受けております。

初代所長の中尾名誉教授は、一貫して情動の神経基盤の研究を推し進められた研究者です。なかでも脳内刺激法で逃避学習の誘発部位を発見し、神経症の動物モデルを完成させたことは世界的な業績であり、それらは英文著書として出版されています。研究の一部は米国の生理学の教科書にも取りあげられました。

また情動の研究を進める中で、先生の慧眼は、個体と環境との関係の重要なことに着目し、先生はこれを「行動医学」と名付けて、「医師は、生物医学と行動医学を兼ね備えなければならい」と書き残されています。すなわち生物医学とともに、心理レベル、社会レベル、文化レベルで医療を考えることの重要性を強調されました。雑誌名にある「行動医学」には、このような意味が込められているのです。「行動医学」の理念は、今日誰もが共有している“健康”の概念、すなわち「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的福祉においても、すべてが満たされた状態にあること」と通底しています。

昨今、メンタルヘルスへの関心が日本の社会にも広く普及しました。きっかけの一つは、WHOによる障害調整生命年(disability adjusted life years, DALY)の採用だったと思います(1990年)。この報告は、精神疾患の疾病負担が腫瘍に次いで二番目に高いことを明らかにしたのです。日本社会がバブル景気から一転して不況の時代へと突入し、1998年には我が国の自殺者が年間3万人を超えました。しかもこの時期、過重労働によるうつ病や自殺が社会問題となり、職域でのメンタルヘルスの重要性が認識され、ストレスチェック制度の確立へとつながりました。2013年には、五疾病五事業の五疾病目に「精神疾患」が位置づけられました。

メンタルヘルスへの取り組みは病院や診療所にとどまらず、職場や教育現場をはじめ社会の幅広い領域において進められています。国民のメンタルヘルスのさらなる向上をめざして、関係者はそれぞれの専門性を生かし、一体となって活動していく必要があります。

福岡行動医学研究所では、これからも若い精神科医の方々、さらにはメンタルヘルスの活動にたずさわる多く方々をも対象として、皆様の活動に役立つ情報を提供して参りたいと思います。

令和2年7月 吉日

福岡行動医学研究所 所長
九州大学名誉教授

神庭 重信